一年後の春、桜霞に街は烟った。
白い薔薇のフラワーシャワーが、深紅のバージンロードに舞い散る。
「おめでとう!」
「おめでとう萌香ちゃん!」
「翔平、この幸せ者!」
どこまでも高い青空の下、白い教会に幸せの鐘が鳴り響いた。色とりどりのステンドグラスから差し込む眩い光の中で、萌香と翔平は永遠の愛を誓い合った。ウェディングベールをあげた翔平は、萌香の唇にそっとキスをする。左手の薬指には揃いのプラチナの指輪が輝いた。萌香の目尻には、幸せの涙が滲んだ。
新婚旅行は翔平の仕事がひと段落ついてからフィジーに行くことが決まっていた。結婚式を終えた二人は高級レストランでディナーを楽しんだ。磨き上げられたクラスに注がれる深紅のワイン、頬を赤らめる萌香を一瞥した翔平の口元は醜く歪んだ。
「さあ、奥様。ここが俺たちの新居だ」
「わぁ!素敵!翔平さん、スカイツリーが見える!」
「そんなにはしゃぐことでもないだろう」
ガラス張りのリビングからは東京の夜景が一望出来た。煌めく星空に浮かぶような感覚に、萌香の心は雲の上を歩いているようだった。人生最良の日。萌香は、父親が犯した罪と翔平の怒りを、忘れていた。
「萌香」
リビングのライトが急に消され、闇が萌香に覆い被さった。翔平の声色が萌香の背中に突き刺さった。萌香は鋭い痛みを感じた。
「なに、どうしたの?」
「・・・・・」
翔平の心の中にはドス黒い感情が渦を巻いていた。優しかった母親の心を奪った萌香の父親への恨み。未だのうのうと生きている萌香の母親への憎しみ。罪の意識が乏しい能天気な萌香の笑顔に怒りを感じていた。
「翔平くん?どうしたの?」
暗がりでも分かる。翔平の目の色が変わっていることが。それは彼の母親の葬儀で見た、あの目だった。萌香の背筋に冷たいものが流れた。
「萌香、なにを怖がっているんだ」
「だって、なんだか」
翔平の手が伸び、萌香の白いワンピースのボタンを丁寧に外していった。萌香は思わず目を逸らし、煌めく夜景に恥ずかしさを誤魔化した。衣擦れの音が床に落ち、目をギュッと瞑る。キャミソールの紐がするりと腕を伝い落ち、その部分が熱を持った。心臓の鼓動が速まり、夜の静寂に響く。
「・・・・・!」
首筋に点々と散る赤い花びら。萌香が快感に身を任せた瞬間、それは鋭い痛みに変わった。翔平が、獲物を仕留めた獣のように、彼女の首筋に歯形を刻んだ。その痛みと恐怖に声も出せず、萌香は身体を捩ったが、翔平の腕の力は強く、跳ね除けることは叶わなかった。冷たい床が肌に触れ、心が震えた。
「痛いか?痛いだろう萌香?」
萌香が痛みに顔を歪める度、翔平は満足そうに小さく笑った。あぁ、目立つ場所は駄目だな。と呟き、彼女の豊かな乳房、柔らかな突起にむしゃぶりついた。それは優しさの欠片もなく、乱暴で獣じみた欲だった。萌香の吐息が震え、身体が無意識に縮こまるも、彼の手に押さえ込まれ、逃れる術はなかった。
「・・・・やめて・・・翔平くん」
萌香に馬乗りになっていた翔平が、ゆっくりとワイシャツのボタンを外し始めた。冷ややかな目で彼女を見下ろし、唇に薄い笑みを浮かべる。萌香の胸は恐怖と緊張で高鳴り、息が浅くなる。翔平の指が布を滑り、肌が露わになるたび、部屋の空気が重く圧迫する。彼女は目を閉じ、逃げられない現実を噛み締めた。
「萌香、この結婚はおまえたちへの復讐だ」
言葉をなくした萌香は、翔平の激しい怒りを身体の奥で感じた。左手の薬指で光る指輪は、彼女を縛る冷たい鎖と化した。彼女はその時初めて気が付いた。自分が地獄の入り口に立っていることを。心臓が締め付けられ、恐怖が全身を這う。翔平の視線は鋭く、逃げ場のない闇が萌香を飲み込むように迫った。
第四十章萌香は港区の三十五階建てマンションを振り仰いだ。風が彼女の長い髪を捲き上げ、まるで自分を拒絶するかのような冷たい箱がそこにあった。ここはかつて萌香の自宅だった。エレベーターのガラスに映る彼女の表情は、毅然として美しかった。真実の愛を手に入れ、克己の母となった今、彼女は過去の自分とは違っていた。ショルダーバッグには、萌香のサインが入った離婚届が静かに収まっている。萌香は今、翔平という過去と決別する覚悟を固めていた。エレベーターが上昇する中、彼女は克己の笑顔と克典の温もりを思い出し、胸に力を取り戻した。ダウンライトが点る廊下に、ハイヒールの音だけが悲しげに響く。見慣れたはずの我が家の扉は、別世界へと繋がる門のように感じられた。萌香は深呼吸し、離婚届を握りしめた。翔平との対峙は、彼女の人生を取り戻す最後の戦いだった。扉の向こうで、過去の呪縛を断ち切り、克典と克己との未来へ踏み出すために、萌香は一歩を踏み出した。インターフォンを押す彼女の瞳には、希望と決意が宿っていた。「・・・・はい」「萌香です」「開いているから、入れ」「分かりました」
第三十九章萌香が日本へ発つ日が決まった。その夜、萌香は初めて田辺克典と結ばれた。克典の優しい指先は萌香を蕩けさせ、熱い唇は彼女の身体に赤い花びらを散らした。それはまるで二人が二度と会えないことを予見するかのように、萌香の奥深くまで情熱的に刻み込まれた。抱き合いながら、萌香は克典の鼓動を感じ、未来への不安と希望が交錯した。克己の寝息が静かに響く部屋で、二人は互いの存在を確かめ合った。「パパ、ば、ば、」「うん、バイバイだね」空港のロビーで、萌香に抱かれた克己は、克典の袖を小さな手で握り、愛らしく微笑んだ。萌香は目を細め、二人のやり取りを交互に見つめた。克己の無垢な笑顔が、彼女の心に温かな光を灯した。「克典くん、なに、永遠の別れみたいな顔しちゃって」「そうかな・・・」「大丈夫よ、帰ってくるから」搭乗チケットを手に、萌香は背伸びして克典に軽く口付けた。別れの瞬間、克典の瞳に宿る寂しさを感じつつ、彼女は微笑んだ。萌香と克己を乗せた飛行機は、カリフォルニアの青い空
第三十八章萌香は眩しい分娩台の上にいた。それはカリフォルニアの明るい太陽を思わせる光で、彼女の顔を白く照らし出した。波のように寄せては返す陣痛に耐えること四時間、額には汗が滲み、苦悶の表情が浮かんだ。唇を噛みしめ、痛みに耐えるたび、萌香の心には過去の記憶が蘇る。翔平との三年間の結婚生活は、愛というより重圧に満ちていた。すれ違いの日々、冷えた会話、互いの心の距離。だが、その中で芽生えた新しい命は、彼女に光をもたらした。田辺克典との出会いは、萌香の人生に新たな色を加えた。彼の穏やかな笑顔、優しい言葉が、凍てついた心を溶かしたのだ。今、陣痛の合間に萌香は思う。この赤ん坊は、過去の傷を癒し、克典との第二の人生を照らす希望の光だと。痛みがピークに達する瞬間、彼女は力を振り絞り、新しい命を迎える準備をした。その小さな泣き声が、萌香の心に響き、未来への一歩を刻んだ。「萌香さん、男の子ですよ」「男の子・・・・・」「とても元気だわ、頑張ったわね」萌香は涙を流し、赤ん坊のぬくもりを感じた。産室の静寂に小さな泣き声が響き、彼女の心を温めた。そこへ会社から駆け付けた田辺克典が現れた。手に深紅の薔薇の花束を持ち、穏やかな笑顔で萌香を見つめる。「萌香ちゃん! 男の子だったんだね!」
第三十七章萌香の胸は早鐘を打った。翔平が、自分が妊娠したことを知ったらどんな反応をするだろうか。彼はこの子を自分の子供だと認知し、久我家の跡取りとして、取り上げるかもしれない。萌香は、それだけはなんとしてでも避け、赤ん坊を守りたかった。緊張で口の中が渇いた。いつまでも居留守を使える訳もなく、萌香は震える指先で応答ボタンを押した。「どちら様でしょう?」萌香の他人行儀な返事が気に食わなかったのか、翔平は先の尖ったナイフを突き立てるように激しい口調で萌香を罵った。彼女はその言葉を聞いているだけで、三年間の辛く惨めな結婚生活が瞼の裏に浮かんでは消えた。唇を噛み、握り拳を作る。萌香は、母として毅然とした態度でモニターに映る翔平に話しかけた。「もう、お会いすることはありません。どうぞお引き取り下さい」「萌香! お前はまだ俺のものだぞ!」翔平はポケットから封筒を取り出すと、彼のサインが空欄の離婚届を広げて見せた。萌香は、まだ離婚が成立していなかったことに衝撃を受け、その場に座り込んだ。翔平の「不受理申出」が、彼女の自由を阻んでいた。あの夜の暴力、復讐に囚われた彼の執念が、なおも彼女を縛る。萌香は腹の子に触れ、決意を新たにした。「この子は私
第三十六章萌香がカリフォルニアでつわりで苦しんでいる頃、翔平は日本で彼女を探し回っていた。二ヶ月前、突然ポストに投函されていた萌香からの離婚届に衝撃を受けた。翔平は、勝手に離婚届を出されないよう、区役所で“離婚届不受理申出”の手続きをした。(どこに行ったんだ!)萌香の母親が入院していた病院に向かったが、ベッドはもぬけの殻で、ビープ音のない白いベッドがあるだけだった。ナースステーションにどこに転院したのかと尋ねたが、「個人情報ですから」と事務的な返事が返ってきた。当然、一千万円近くの入院費用は一括で支払われていた。翔平の胸に怒りと焦りが渦巻く。翔平は、公証役場で萌香に声をかけた田辺という男を思い出した。田辺克典はオークションで一千万円を支払う財力を持っている。萌香の母親の入院費用も、田辺が工面したに違いなかった。翔平は田辺克典の足取りを追うため、知人の調査会社に連絡した。「絶対に見つけ出す」ところが、埼玉県川越市にある田辺の実家は古びた一戸建てで、到底、金回りが良いとは言えなかった。家から出てきた年配の男性、おそらく
第三十五章萌香は、彼の復讐が盲信であったにも関わらず、離婚に応じない翔平の姿勢に苛立ちを感じるようになっていた。そこには僅かな情が陽炎のように揺れていたが、それもやがて儚いものへと変化した。萌香は、サインをした離婚届を翔平のマンションのポストに入れた。もう後戻りはしない。確固たる思いが萌香を支配した。「お待たせ」「早かったね」「ポストに入れるだけだから」彼女は翔平から逃げるため、田辺克典とアメリカに渡航することに決めた。母親の多額の入院費の支払いも済み、最先端の治療を受けられるようカリフォルニアの病院に転院する手続きも済ませた。「ありがとう、田辺くん」「いいんだよ」田辺克典は、翔平との離